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さぁ、どうやろか・・・ 2008/11/24追記 あれから3ケ月、 魂が、千の風になってくれたらいいなぁ・・・と 私のそばで、見守ってくれてたらいいなぁ・・・と そう思うようになりました。 「涙を流すのは、良いことです。 現実から逃げずに、いろんなことを、たくさん考えたらいいですよ。」 ごえんさんの言葉です。 ごえんさんと会話するだけで、 パブロフの犬になって泣いてしまう私に ごえんさんは、いろいろな言葉をくださいました。 時間が経つにつれ、ゆっくりと、冷静に、自分を見つめることができるようになってきました。 そして、まわりの人たちが、見えるようになりました。 私は、たくさんの人達の気持ちに、支えられて生きている・・・ 3ケ月たって、そんなことを、折々に感じながら、日々、過ごしています。 2009/02/01 追記 そしてまた2ヶ月経ちました。 現実の世界で、人とコミニュケーションを取ることのストレスから、ようやく開放されました。 プチウツ状態の私を引っ張り出してくれた、料飲組合の方々に感謝いたします。 山中温泉に行くたびに、「カス笑い」させてくれたみなさんに、心からお礼申し上げます。 ようやく、またブログを書いてみよう、という気がでてきました。 ありがとうございます。 以降、記録 ------------- 8月13日 午前6時30分 父が、死んだ。食道静脈瘤破裂による失血死。病院へ搬送されて約7時間後のことだった。ICUにいた私は、本当に父が死ぬとは思っていなかったから、「お父さん、がんばって」と、泣きながら叫んだのは最期の一時間だけだった。テレビドラマのシーンのように、心拍計が一直線になったとき、生まれて初めて、立っていられないほど嗚咽した。それでも母は、父の胸をさすり続けていた。最後まで父に息をさせていた人工呼吸器を止める決意をするのに、30分かかった。父が本当に6時30分に死んだのか、今でも分からない。もしかしたら、もっと前に死んでいたのかもしれない。 8月13日 午後12:30 父の遺体が、帰宅する。東京にいた弟は、父の死に目にはあえなかったが、病院の霊安室で父に会い、父といっしょに帰宅する。一足先に帰宅していた私は、家の中を掃除する。大量の汗を流しながら、徹夜しても身体は動くもんだなぁ、などと考えながら、掃除機を振り回す。父が帰宅し、所定の場所に安置されても、祖父母は部屋にこもっていた。 父の頬をさわってみる。温かい。 8月13日 午後3:30 葬儀屋さんは、大変だ。丁寧に、かつ敏速に、仕事をこなす。決めなくてはならないことだけを、きちんと決めさせる。 8月14日 午後7:00 父が涙を流した。右の目じりから、ゆっくりと涙が流れた。父はまだ生きている。身体を動かせないだけだ、私の声は聞こえているに違いない。涙が首につたうと、こそばゆいだろうと思って、白いハンカチで涙を拭いてやった。 8月14日 午前2:30 父の横で寝る。頬をさわってみる。まだ、ほんのりと温かい。そして、呼んでみる。 8月14日 午前7:30 近所の人が、弔問にやってきて、母に、たたき起こされる。急いで布団をたたんで、寝巻きのまま、応対する。母とその人が話している横で、別のことを考えていた。そういえば、昨夜、父は出てきてくれなかったなぁ、と。とても期待していたのに。 8月14日 午後3:00 父が棺に入る。その前に、なにやら最後の儀式ということで、身体を拭いてやるらしい。喪主の弟が最初に拭く。次に母、そして私。足の裏の魚の目に悩んでいた父。魚の目を拭いてやれと思い、足の裏を見たが、魚の目は綺麗になくなっていた。いつ治ったのだろう。弟が泣いている。母も泣いている。私も泣いた。葬儀屋さんが、父に白い着物を着せる。足袋や脚絆をつけて、首に一文銭を6枚書いた紙をぶら下げる。三途の川を渡るときに必要なのだそうだ。そのとき、母が私のそばへ来て、「頭に、三角のあれをつけるのだけは、やめてもらうように言ってほしい」と涙ながらに言う。よく、うらめしやの幽霊が頭に付けている、三角のあれだ。あまりにたくさんの装束をつけるのを見ながら、父はきっと、こんな格好はしたくないだろうと、私も思っていたので、付けられそうになったら言おうと身構えていたが、結局、それは、なかった。最後に父は、お遍路さんのように格好になったが、まったく似合っていなかった。父らしくなかったから、かわいそうだった。最後に涙を、もう一度拭いてやった。 棺を閉じる直前になって、祖父が初めて、父の顔を見に来た。父の顔はたっぷりの輸血をしいたせいか、とても浮腫んでいて、身内としては、少々不本意だったが、祖父はその顔をじっくり眺めたあと、「よしっ!」と、元気良くひざを叩き、次の間の祖母のとなりへ腰掛けた。「どんな顔してた?」と祖母が聞く。「なぁも変わらん、いっしょや、綺麗な顔、しとった」と祖父。「そおか、そんならよかった」とうなずいた祖母は、その死顔を一度も見ることなく、息子を送り出した。 8月14日 午後7:00 通夜 通夜のことは、あまり正確におぼえていない。初めて袖を通す絽の着物を着て、遺族として並び、ありがとうございますと、頭を下げながら、あっという間に時間がすぎた。ただひとつ、しっかりと記憶に残っているのは、ワイシャツの、襟の外に、ネクタイをした弔問客がいたことだ。要するに、首にネクタイを締めていると言ったほうがいい。その人が誰だか、私にはわからないのだが、私達の前でお悔やみを言ってくださる襟元を見ながら、涙が止まらないのと同じくらい、可笑しくて仕方がなかった。今考えれば、慌てて来てくれたことの表れなのだから、ありがたく感謝すべきだったが、どうしても可笑しかったから、涙を抑えるふりをして、笑いをこらえた。そんな首ネクタイが、もうひとりきたが、二人目は、見ないようにつとめた。 8月14日 午後9:00 親戚と身内だけで宴会。午前三時まで呑み続けた。何を話したのかおぼえていないが、なぜか良く笑い、一度だけ泣いた記憶がある。その日も父の棺の横で寝たが、父は起きてはこなかった。 8月15日 午前11:00 葬儀 二日酔いのまま、葬儀。 父の同級生が、弔辞をよんでくれた。すばらしい弔辞だった。会場からはすすり泣く声が聞こえたが、私は泣けなかった。なぜなら、弔辞によまれた父の姿は、普段の父とは、あまりにもかけはなれていたからだ。父は外では、わりと「いい人」だったようだ。 「最後のお別れです」とアナウンスが流れ、私達を先頭に、父の棺にお花を入れる。最後だと思うと哀しくなって、どうしても離れられない。涙も止まらない。父の頬は氷のように冷たくなっていたが、やわらかかった。目じりには、涙がまたにじんでいた。会場に「千の風になって」という歌が流れる。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」という歌詞の歌だ。なんだか腹が立ってきた。父はまだここにいるし、私達がお墓のことを考えるのは、まだ早い。私は「この曲を流さないでくれ」と暴れた。「お葬式なんて最悪や。こんな曲は聞きたくない。早くとめてくれ」と叫んだが、誰も相手にしてくれない。私が泣きじゃくりながら叫んでいたから、何をいっているのか誰もわからなかったのだろう。葬儀屋さんがそばへ来て、「最後にもう一度、斎場で会えますから」となだめてくれた。そのとき、ようやく気が付いた。「最後のお別れ」と言われて、「千の風になって」を聞かされて、私の感情は、それに乗せられてしまったのだと。私の姿は、父の死を受け入れることができず、泣き叫ぶ娘として、葬儀に一花添えたのだ。もう一度会えることを知っていたら、いや、その前に、昨夜あんなに呑まなければ、私は、もっと冷静にいられたかもしれない。 8月15日 午後1:00 斎場 これで、本当に、最後の別れになる。父の遺体の向こうには、棺がすっぽり入るお釜が口をあけて待っていた。その隣のお釜から、先に焼かれた人の骨が出てくるのが見えた。父も、もうすぐあんな姿になるのだろう。さっき泣き叫んで疲れたからか、それほど涙は出なかった。父の顔を見る。父ももう泣いてはいなかった。頬をさわってみた。やわらかくて、しっとりしていた。父と私の涙を拭き続けたハンカチを、父の頬に添わせて、入れてやった。 8月16日 葬儀屋のマニュアルを発見。 別所へ。生命保険、解約を知る。 8月17日 六角堂へ納骨 8月18日 金沢へ 8月19日 結婚式演奏の打ち合わせ 夜、山中へ 8月21日 二胡を弾く。母が褒めてくれる。父は一度もほめてくれなkった。 夜 金沢へ。 8月23日 結婚式の演奏。 母に電話をする。母、荒れる。 「おとうさん、私はどうしたらいいんや」と泣いた。 8月24日 午後、別所へ。母と合流し、片付け。 夜、北京五輪閉会式を見る。父は開会式と北島孝介の100m金(8月11日)は見たらしい。 8月25日 午前、アフらっく。 午後、別所の廃品回収。 かわもとさんに塗料を見てもらう。いそいで片付ける必要がないことに、ようやく気づく。 8月26日 ごえんさんがお経を上げにきた。 「逃げずに、考えることが大事。 お父さんが、最後に何を教えてくれたのか、自分が何のために生まれてきたのか」 8月27日 仕事(撮影機材の組み立て) 8月28日 F氏と、商品撮影をしながら話した。F氏は、中学1年の冬に、母親を交通事故で亡くしたそうだ。立ち直るのに、やはり一年かかったという。「母親が死んでからも、中学時代は、友人とも遊んだし、それらしい中学生活を送ったはずやけど、中学の思い出は?と聞かれたら、母親が死んだこと、それしか思い出せない」とF氏。そして、母親の思い出話を、おもしろおかしく、聞かせてくれた。私にとって、父の思い出とは、なんだろう。父は、私を、よく打った。父に打たれたことが、一番の思い出だ。今は、それしか思い出せない。 夕方、祖母に電話をする。「元気か」ときくと「みんな帰っちゃったら、さびしい」と言う。今日は病院の診察日だったらしい。診断は、いたって健康とのこと。また週末にいく約束をして、電話を切る。 8月29日 たまたまテレビで放映されていた映画に見入った。「夏休みのレモネード」。宗教の違う二人の少年のお話だ。カトリックの神父さんが、少年の問いかけに答える言葉に、涙のスイッチが入り、止まらなくなる。「信仰とは、目に見えないものを信じる心」とのこと。
by yamanakaonsen
| 2008-08-25 00:02
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